朝はとてもよく晴れていたのに、午後になってから急に空に灰色の雲がかかりだした。
ああ傘忘れちゃったよ、と先生の話も右耳から左耳に抜けていって、不安定な空をじっと眺める。
雨が降りませんように。
今日は一日晴天ですなんて、お天気お姉さんの嘘つき、と悪態をついても空模様は悪化への一途をひたすら辿る。
運が悪いのか。
朝の占いは九位だった。
どちらかといえば悪い方なんだけれど、天気に関していえばこの教室内にいる皆さん共通なわけですから、アタリハズレはわからない。
小さく息をはきながら、キラはそっと視線を移した。
机の上の物理の教科書。
その下の、もはや落書き帳と化した、物理のノート。
物理なんて、一度わからなくなると、そこでジ・エンドだ。
こんなのやりたくなかった、といつもぼやくキラだったけれど、それでも物理なんて授業を選択してしまったのは。
「ザラ君」
先生の声に、自分が呼ばれたわけでもないのに胸がドキンと鳴った。
その音が隣の席の人に聞こえていませんように。
そう願わずにはいられないくらい、バクバク、と煩いくらいに心臓が跳ねる。
その理由は、自分の浅ましい想いを先生に読まれたのかと思ったからで。
「ザラ君」は、優雅な仕種で椅子から立ち上がると、それはもううっとりするほど、月並みな言葉で彼を表現するのは難しいけれど、
魅惑的な声で先生の呼びかけに答える。
何について話しているかなんて、授業で躓いたその日から、わからない。
それでも彼の声が聞こえればそれでいい。
キラの席は窓際の一番後ろの特等席。
ザラ君が隣じゃなくて、隣の隣の席でよかった。
授業中にそっと見つめたり、ため息をついたりするのを彼に気付かれずに済むから。
用は(というより恐らく問題を宛てられたのだろう)済んだらしいザラ君は立ち
がった時と同じく、わざとらしくない様子で、椅子に着く。
その時、彼が油断していたキラの方をふと見てきたから、それこそキラは心臓が口から飛び出そうになった。
にこりと微笑みかけるザラ君に、思わず口を塞いで顔を背けてしまった。
そうしなければ、絶対に奇声をあげていた。
もしかしたら、心臓も飛びだしていたかもしれない。
だって、そのくらい好きなんだ、君のこと。
折角笑いかけてくらたのに、こちらはニコリともせず、失礼だったかななんて思いながらザラ君の方に再び視線を向けると、
もう彼の瞳は楽しくもなんともない 物理の教科書へ向いていた。
僕が変に意識しすぎかな、とキラは心の中でぼやく。
男が男にときめきを抱いていて、そして君を見つめていました、なんて向こうはちっとも、想像すらしていないに決まっている。
虚しいけれど、この気持ちを悟られて、ただでさえ友達未満なのに、嫌われでもしたら怖いから、それはそれでありがたい。
でもやっぱり、可愛子ぶって、首くらいは傾げておけばよかったかな。
話す機会と言えば事務的なことくらいで、そんな自分に微笑みかけてくれたのだから。
キラは手にしたシャープペンシルを後悔を交えながらくるりと器用に回した。
雨がぽつり、ぽつり、と降り出した。
*******
降り出した雨は、下校時には、土砂降りへと姿を変えていた。
「おねーさんの嘘つき」
下駄箱で靴を履きかえて玄関口までやってきて、雨のあまりの凄惨さにキラはがくりと肩を落とした。
苦情を入れてやりたいなんて思っても、家に着く頃にはきっとそんな元気すらないに違いない。
現状としてもう雨は滝のように降ってしまっているわけだから、とりあえずこの
中をどう帰るかを考える。
誰かに入れてもらう。
それが一番打倒な方法だろう。
置き傘なんて素敵な習慣がキラにはないし、少し期待して鞄の中を覗いたけれど折りたたみ傘の姿も見当たらなかった。
冬の雨はタチが悪い。
こうして突っ立っている間にも指先から凍るように冷たさが広がっていく。
「トール……はミリィと帰るか」
クラスメイトのトールなら自分と傘を分け合っても大して濡れないだろうと候補にあげてから、ついこの間、彼に恋人ができたことを思い出す。
「邪魔したくないからなぁ」
ここ最近いつも一緒に下校している二人に悪くて、キラは第一候補を却下する。
他に傘持ってそうな誰か残っていないかな。
下駄箱に戻って、校舎に残っている人を確認して、キラはぴたりと動きをとめた。
ザラ君が残ってる。
もしかして、一緒に帰ってくれたりとか、しないかな。
彼が傘を持っているかどうかもわからないのに淡い期待を抱きながら、名前が書いてある小さな札をそっと指先でなぞってみる。
それだけで妙に気恥ずかしくなってキラは、へへっ、と笑った。
「あ、でも帰る方角もわからないや」
そもそも、入れてくれるかどうかもわからないけれど。
「俺の下駄箱、おかしい?」
突然の声に、悪いことをしていたわけでもないのに、キラの身体が跳ね上がった。
少し覗いたのはきっと悪いことではないし、これから悪いことをしようとしていたわけでもない。
それでも声の主が彼なら、こんな風になってしまっても仕方がないじゃないか。
それにしても挙動不振すぎるだろうか。
ぎこちなく振り返れば、そこにあるのは大好きなザラ君の、キラの想いなど微塵もしらない、クラスメイトの顔があって。
その手には黒色の傘が握られていた。
「どうかした、ヤマトさん?」
ザラ君は自分のことを「ヤマトさん」と呼んでくれるのか。
名前を呼ばれたこと自体初めてで、緊張のあまり喉がひりひりと渇いていく。
「やっ……あの……そのっ……」
その傘に一緒に入ってもいいですか?
なんて言えるわけがなかった。
ただでさえ口をぱくぱくと、金魚みたいな、醜態を曝しているというのに。
「なんだか顔が赤いけど、平気?」
頭ひとつ分高いザラ君の瞳が細められて、キラに視線を合わすように身体を屈める。
長い指がそのままキラの頬に触れようとするから、思わず後ずさって、下駄箱に身体を打った。
「痛っ!」
「大丈夫か!?」
最初は遠慮がちだった手が、今度は勢いよく伸ばされてキラの身体を引く。
力の方向に従って、キラの顔は、憧れの、ザラ君の胸に、ぽすんっ、と埋まった。
今日の占い、アタリかハズレかは、未だにわからない。
心拍数が上がる。
この音が気付かれませんように、気付かれませんように。
だって今は、教室の席ひとつぶんどころか、一ミリだって離れていないわけですから。
「あ、あの……ザラく…」
「たんこぶとか、平気?」
指が、労るように、キラの後髪をすいた。
「へ、平気!」
勇気を振り絞って、胸板を押すと、髪に触れていた指はあっさりとはなされた。
正直残念だと想いながらも、キラは俯いて呼吸を整える。
頬の紅潮が早くおさまりますように。
「ヤマトさん、今帰り?」
問いかけに、下を向いたまま頷く。
物理の授業の時もそうだったけれど、こんなことばかりしていたら好印象どころか、嫌な奴、と思われかねない。
「すごい雨だね」
キラは黙って頷いた。
もう、濡れて帰ろう。
顔が熱くて仕方がないから、ちょうどよい冷却剤になるはずだ。
「誰かと帰る?」
動揺してるとはいっても物理と違って質問の意味は理解できたから、首を横にふる。
「そっか…」
その低い声が好きです。
だから早く帰ってください。
矛盾する気持ちが、キラの本音だ。
これ以上おかしなところも見せたくない。
でもザラ君が好きだ。
好きだから、早く帰ってください。
「傘ないの?」
うん、と何度も頷いた。
頭を冷やすために濡れて帰ります。
だから、早く帰ってください。
「じゃあ、一緒に帰らない?」
でも、傘もってないんです。
頭の中で返事をしてから、キラは目を見開いた。
「え……」
今のは聞き間違えでしょうか。
慌ててザラ君の方を見れば、どうかな、と穏やかな声がした。
「僕……傘がなくて」
カラカラに渇いた喉のせいで、僅かに声が掠れた。
じゃあ俺のに一緒に入ろうなんて、君はなんて優しいのでしょうか。
ザラ君のことを、ますます好きになりそうです。
END